5月14日行われたローリングストーン誌によるアドロックインタビューを友人に頼まれて翻訳しました。拙い翻訳ではありますがシェアできればと思います。それではどうぞ。
アドロック(アダム・ホロヴィッツ)・ローリングストーン誌インタビュー(14th-May,2012)
「完全に呆然としてるよ」アダム・ホロヴィッツはぶっきらぼうに答えた。バンド仲間のアダム・ヤウク(MCA)が5月4日に亡くなって以来初めて彼はインタビューに答えてくれた。ビースティボーイズの広報担当の事務所に座って、ヤウクが亡くなって10日後の今日、ホロヴィッツは愛情をこめて彼らの過ごしたパンクでヒップホップでhijinksな生涯を振り返った。彼はまた、友の死後、どのような心情なのか、そして彼がゆっくりとそれを受け入れようとしている気持ちを語ってくれた。「僕の妻は、「あなたが立ち直っているか確かめたいわ」なんて言ってる。でも犬の散歩になんか行ったとき、突然、道端で涙があふれてしまうんだ。」ホロヴィッツは物憂げに首を振った。「ほんとに頭がおかしくなるよ。」
-ヤウク(MCA)はビースティボーイズの最年長でしたが、彼はバンドの初期リーダーだったんですか?
彼はスマートでまとめ役だった。友達同士でバカなアイデアを出し合ってもふつう実現はしないものなんだ。でもヤウクは実現させる。彼には特別なやり遂げる力があった。僕らメンバーにはそれぞれ役目があって、彼は「make-it-happen」(実現させる)担当だったんだ。俺が昔「潜入捜査の警官みたいな恰好で写真撮ろうよ。きっとおもしろいから。」なんて言ったら、アダム(ヤウク)はその時ムービーに凝ってたもんだから、結局それがあのビデオ(「サボタージュ」)になったんだ。それは僕らにとって、単にいい写真を撮るどころの話じゃなくなってた。
- ビースティボーイズの音楽制作においてのヤウクの役目は?
アドロック: 彼は本当にいいベースプレーヤーだった。彼はバッドブレインズのダリル(ジェニファー)が大好きで、実際彼みたいに鳴らすことができた。僕らが初めてマーク西田(マニーマーク)と会ったとき、彼とヤウクが音楽的なことは全て話したりしてた。「もう5つ上だな」とか話してたんだけど、俺は「指をどこでおさえるか教えてよ。そしたら4分ぐらい弾いてるからさ」なんて具合だった。アダム(ヤウク)はテクノ・ウィズ(電子楽器の魔法使い)だったよ。そんな風に俺やマイクあとリック(ルービン)はアダムのことを呼んでた。以前ブルックリンのヤウクのアパートに遊びに行ったんだ。ヤウクはオープンリールのテープレコーダーを持っていて、部屋中にテープを繋ぎまくってた-キッチンからイスのまわりから。彼はレッドツェッペリンのビートを切り貼りしてつないで、何回も何回も同じビートがかかるようにしてたんだ。俺が「どうやってそんなこと思いついたの?」って聞いたら彼は「スライストーンがこうやってたって聞いたんだ」なんて言ってた。
-君とマイクはヤウクとどうやって曲を作っていたの?だれがどんな役割だった?
「ライセンス・トゥ・イル」のヒットの後、ある日僕らは口論になってしまったんだ。「俺はこの曲の37%作ったぜ」とか「この16小節は俺だ」とか。ぼくらはそれから、そんなことを問題にしたくなかったから、全てを3等分しようって決めた。誰が何を担当したとしても、僕らはメンバー全員のクレジットを載せた。ただし拒否権(VETO)を行使した場合を除いて。もし誰かがどうしても嫌だったら、「この曲はやめよう」って言えるんだ。
-君はヤウクのアイデアを拒否したことはあった?
ヤウクは「イル・コミュニケーション」 のアルバムカバーをこの木の絵を使いたがってた。実際この絵はジャケットの内側で使われたんだけど、俺は「この木以外なら何でもいい」って拒否権を行使したんだ。ヤウクはマイクと僕にアルバム「The Mix-Up」の時に拒否権を行使したよ。「このアルバムはインストアルバムにするべきだ」って。僕らは「ちょっとボーカルも入れてみようよ」なんて言っていたんだけど、「いや、これはインストゥルメンタルじゃなくちゃだめなんだ」って言ってた。
*訳者注:MCA発案のヒップホップグループによる世界で初めてのインストアルバムは、その後ビースティボーイズとして3度目のグラミー賞を受賞することになった。
-ヤウクのキラーチューンやパンチラインで君をノックアウトした曲や思い出は?
僕らはLAで「ポールズブティック」を録っていて、彼はコリアンタウンのクレイジーなアパートに住んでいたんだ。そして彼は「A Year and a Day」を作った。トラックはすげえヘビーだった。ヤウクはそれにラップを入れたんだけど、ヤウクはマイクを装備したジェットパイロットのヘルメットを買ってきて、それをかぶったままレコーディングしていたよ。
-彼が仏教徒になってから君は彼の作風の変化にどういう風に対処したの?
彼の歌詞はシンプルに愛情(Love)と非暴力(Non-Violence)についてだった。それが彼が熱心に書いたテーマだった。基本的な気持ちは相変わらずだったけれど、僕らは共に変化して行ったんだ。俺が「グラティトュード」(感謝の気持ち)の歌詞を書き上げた時、ヤウクは「この歌詞すごいいいね」って言ってくれて。僕は彼をハッピーにできたことにハッピーだった。誇りに思ったよ。
-彼ががんを打ち明けたときの君の反応は?
彼は「俺は大丈夫だからって言って。大体において彼はいつも彼は正しかったから、僕も彼を信じた。君もきっと彼のやる気とポジティブさに、そう思わずにはいられなかったと思う。僕らは数ヶ月前にレコーディングしたんだ。以前となんにも変わらずに。以前にも増しておならみたいな冗談を交わして、ご飯を注文して。いつものお決まりのやつ。だからレコードを出すのにあんなに時間がかかったんだ。
-彼が仏教の中で得た慰めは、あなたが彼の病気と死に向き合う助けになりましたか?
ヤウクは恐れてていなかったと思う。辛かったと思うけど。でもおれはヤウクがこわがってる所なんて見たことがないと思う。僕らは昔ブルックリンにとんで行った時、少しこわがったかもしれないけど。でも、彼は長い(闘病の)あいだ全く恐れていなかった。そのことが僕を安らかな気持ちにさせてくれるんだ。
翻訳:MATT TAKEI 30th-May,2012
原文参照:
http://www.rollingstone.com/music/news/beastie-boys-adam-horovitz-opens-up-about-adam-yauch-he-was-in-charge-20120523#ixzz1wFh0LdMh
次回はマイクDインタビューを翻訳予定です。